-領袖考察-
総帥:太田黒伴雄姓は源、名を安国と言い、通称鉄兵衛。
副帥:加屋霽堅姓は藤原、名を楯列(後楯行)、通称榮太(霽堅)。
「凡そ天下の大事は容易に人力の能くす可き所ではない。唯天地神明の慶護によって始めて尊攘の大功を全うする事ができよう。林先生はのたまえり『神事は本なり、人事は末なり』と。思うに本立って末栄えるのは自明の理である。須らく力を其の本に致して邦家の爲に神明の冥助を斬ろう」
太田黒はこれ以降、専ら神事に励み、また一党もそれに従うが如く様々な神社へ詣で日々神々に尽くすのであった。太田黒の人物像を模索すると、資料には容貌魁偉すなわち厳つく大柄な男だと書かれている。彼はその厳しい外見とは裏腹に非常に穏やかで、熱く清冽な精神を持ち多くの諸先輩からも対等な座を与えられている。
また、彼は古き教えそのままに、自身の命までも神意に委ねている。変わり行く世に嘆きを漏らしつつも一心に神に祈りを捧げる姿は生半可なものではない。「国」という誇りを守りたいと願う純粋なまでの思いが信仰に繋がるものである。太田黒は総帥として、自らに厳しい試練を課しながらも生き神様の様な姿勢で古来の神道文化を継承し、欧化に立ち向かおうとしていたのかもしれない。
対する加屋もまた、大柄で厳しい顔立ちを思わせる容貌と記されており彼の厳格な姿勢は一党及び周囲にとっても影響力のある所とされている。彼が通ると道を譲り、また対座に当たっては襟姿勢を正して迎えるとある。加屋霽堅は果たしてそれだけ頑固で剛直な人物であったかといえば、そうでもない。彼は非常に子供を愛し、石光真清著「城下の人」でも気さくに子供達と接する優しい翁の姿が描かれている。文中では子供達(石光氏等)と熊本祇園山へ上がりふと我が身に迫る覚悟と次代を担う若者への想いと感じられる言葉がありこれを引用する。
「凡衆は水に浮かぶ木の葉の様なものだ。大勢に流されて赴く所に従うが、憂国の士はそうは出来ぬ。いつかは大勢を率いるか、あるいはこれを支えていくものだ。それを忘れてはなりませぬぞ・・・。」と、声は低いが力強く言葉を結んだ。
これこそ、神風連以下攘夷思想を守り抜いた人々より次代への願いであり、先駆けていく彼等の本願であると見て取れる。人間は木の葉に等しく時代に流れ人に流れ行くものだとし、自然摂理を述べる一方、彼は自身らを木の葉の流れではなく支えるべく器、流して導く風の如くその役割を解いているのであろうか。いずれにせよ、彼等一党の決起はまさに我々日本人とそれを支えてきた文化への危機を如何に守れるかと言う問いかけであり、その為の大きな犠牲でもあるのである。単純に聞こえる言葉にも様々な解釈はあり人それぞれにそれは違う。彼等の命がけの訴えこそ、様々に混沌する世情において必要なものと思われる。
<両帥の逸話>
・大野鉄兵衛は始めて林桜園なる名士の噂を聞くと、彼を敬慕し「斯くの如き大人に就いて道を修めたい」と望んで友・加屋栄太と諮り、中村直方(加屋の親戚)に仲介を求め並んで原道館の門を潜った。この時大野25歳、加屋23歳であった。桜園は二人を見ると大いに喜び、神道の道を説き幽明の理を講じ彼らに先の望みを以って授けた。彼は加屋と共に神道を尊信し奮って随在天神の道を体得せんと、精励力行昼夜に問わず修行とその究明に努めた。
・ある日両帥共に連れ立って同志木村弦雄を訪ねると、彼は丁度洋書を開いて究明に当たっている最中であった。これを見て一つ声が上がった。「君もまた此の毒手に酔おうとするか」と。一党の副帥加屋榮太である。それの姿を傍らにある太田黒は微笑しながら出で、「毒を知ってこれを用いる。却って薬となるだろう」と言い収めた。
大野加屋は全く似通った境遇にあって、幼い頃それぞれ父を失い、母兄弟と共に苦労を重ね貧しい中で育っていった。彼らは平生書を好み、様々な学を修めている。
林桜園に就いて原道館入りするまでにも、おそらく何らかの共通する思考的繋がりがあったのだろう。彼らは日々自分に厳しい修練を課しながら、師の教えに基づき神道の教えを実践し後身へと引き継いで行った。それらは全て日本古来の伝統を守りながら漸進しようという彼らの志であった。大野は太田黒家へ養子に入り、一層信仰深く神事に没頭しながらも一党170余名の組織を柔軟に治めていた。加屋もまた、副帥として彼とは逆に厳しい目をもって彼らを引き締め纏め上げていった。一党の縦横深い繋がりは二人の静と動という見事な均衡を持って維持されたと思われる。
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