-神風連概要-
西欧文明の風潮が強まり、往来を行く人々、丸腰断髪洋服と流行もガラリと変容したが、肥後熊本へはなかなかその風届かず、城下今だ大小差し髷を結った和装姿が目立っていた。次第にその肥後も徐々に広がる欧化に流されつつあったが、一部それを全く受け入れぬ一党があった。
彼らはかつて肥後勤王党という尊皇攘夷思想を据えた一団にあったが、維新以降一帯から分派して敬神党と称している。人々は彼らの平生の様やその敬神主義を取って神風連とも呼んだ。神風連とは当時彼らへの蔑称の様なものだったが、その潔さと高潔さを鑑みればそれこそ相応しい称号であるとも取れる。
以下は太田黒伴雄の建言した上書冒頭であり、また一党が最も尊きものと考えていた主張であった。
「恐くも天照大神の神風に渡らせられ神武天皇以来長きに続いて天壤と窮まりなき現御神においでになって、世界萬国の大君にぞましましける。万民も神別皇別の素性正しく、上下を上げて礼儀廉恥を尊び、忠孝仁義を国風として西洋諸国の食欲利富に飽かざる夷風とは固より日を同じくして語るべからず」
この観念こそ林桜園の指導であり、信条であった。
彼らはただ神裔たる皇室を掲げあくまで神事によって治世を治めん事を真とし、清き倭国へ夷風を移すまいと熱望したのである。嘉永以来夷諸国の来航は頻度を増し、米英佛を始め再々開港の要求ばかりを突きつけて来る。通商を、貿易を求めるならば、国際関係においても儀は除けぬものであり、古より当然然るべき表敬在らねばならない。これに対し、外人の態度、行動は如何なものか、傲慢無礼の上、乱暴軽侮であって倭大君すなわち天子に対する尊敬奉る態度では甚だない。太田黒はそれを更に上書認め建言している。
「食欲利富に飽きぬ夷等が、今通商などを理由にわが国へ度々来航しその行い振る舞いは、妄りに大砲を発し勝手に近海の測量をし我が国土をすら占領せしめんとして横暴極むるもの杯、無礼亡状言語に絶する・・・・・・」
この時より正に四方にある志士は台頭し尊攘と開国の相反する思想が対立していった。それから僅かの間に相次ぐ大乱戦乱が巻き起こり、遂に江戸3百年の天下は脆くも崩れ、彼らの信奉する王政の世となるのであった。一党の副首領・加屋霽堅はこれに歌を詠んで、
よの塵を 祓い清めて大君の 御代あらたまの 春風ぞ吹く
と、党を挙げて喜びこの詠を斉唱し、
「四海は必ず王政の恩恵充実し、先帝多年の叡慮(天子の考え)はいよいよ今日に行われよう。」
と、眼を刮り腕を占めて天下にある同志と共に、少なからぬ希望を持って天朝の方策に繋げ、夷征伐の公挙をただ待ち望み奉った。然しながら彼らの望みとは裏腹に、新たに興った政府は夷との交易を盛んに、西欧文化の夷風を雪崩込ませるにいたる。
彼らは夷敵の軽侮を制するも能はぬその様に痛憤深恨止まぬものであった。こうして新政の経営と一切挙がらず退いて空しく悲憤をもって肥後の天地に鬱積したのである。
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