河上彦斎-略年譜




天保五年(1834年) 白川県肥後国飽田郡熊本新馬借町に小森貞助・和歌の次男として生まれる。
小森彦次郎(幼名)玄明(実名)
弘化元年頃(1844年) 肥後藩士河上彦兵衛の養子となる。(11歳)
嘉永二年(1849年) 熊本城下御花畑のお掃除坊主に召抱えられる。(16歳)
この頃河上彦斎と改名
嘉永四年(1951年) 藩主の参勤交代のお供で江戸へ行き、家老付き坊主補助として勤める。(18歳)
嘉永五年(1852年) 藩主のお供で熊本に帰国。謹直が認められ、そのまま家老付き坊主となる。(19歳)
嘉永六年ペリーの黒船来航。
安政五年(1858年) 再び江戸へ。(25歳)
井伊直弼が大老になり翌年安政六年、吉田松陰、頼美樹三郎、橋本佐内らが処刑される。
(安政の大獄)
万延元年(1860年) 桜田門外の変により、井伊大老暗殺される。
文久元年(1861年) 藩主に従って熊本へ帰国。
この年、同藩士三沢家の次女天為と結婚(28歳)⇒文献によっては18歳になっている場合も。
同年、奥州浪人清河八郎と会い、大いに共鳴。
文久二年(1862年) 京都警備の要請により長井護美が上京するのに際し、これに同行(29歳)
坊主職が解かれ、蓄髪する事を許される。この時、河上彦斎と改名。
文久三年(1863年) 八月十八日の政変で長州藩が京を追いやられる。この時自らも脱藩し、長州と行動を共にする。
(30歳)
元治元年(1864年) 池田屋の変により宮部鼎蔵、松田重助らが新撰組に斬らた事を長州で聞き、憤慨して京へ上る。
(31歳)
同年七月 公武合体を計る佐久間象山を暗殺。
同年七月 禁門の変で長州藩家老の国司信濃隊に付いて戦うが敗れ、共に長州へ退く。
慶応二年(1866年) 第二次征長戦(四境戦争)では高杉晋作の奇兵隊に呼応するが、長州藩が小倉で肥後藩と
戦う事に耐えられず、藩主を説得するべく肥後へ帰国。しかし聞き入れられず投獄される。(33歳)
明治元年(1867年) 明治政府の誕生。約一年間の投獄生活を終え出獄。名を高田源兵衛と改める。
旧同士たちが牛耳る新政府の政治(外交)方針に愕然とする。(34歳)
明治二年(1869年) 藩命で肥後領の飛び地鶴崎へ行き、兵隊長となりその本営を有終館と名づける。(36歳)
元同士である奇兵隊の生き残り津守幹太郎等から奇兵隊統括を頼まれるがこれを断る。
明治三年(1870年) 藩命により、有終館を解散させられる。(37歳)
(反政府的な一大軍隊となりつつある事を恐れられたため。)
明治四年(1871年) 新政府に対する不満から、奇兵隊が反乱を起こすが失敗に終わる。
彦斎は大楽源太郎以下奇兵隊の生き残りを匿った罪で投獄、東京へ護送される。
一度の審問もないまま、死刑判決が下される。
同年十二月 死刑執行(享年38歳)




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