河上彦斎-逸話






-青春編-


彦斎が習い事に行っている家の娘にとても美しい女の子がいました。彦斎はとくにそんな気持は
無かったのに、周りの人間が「あいつはあの女の子に会うためにあの家に通っているんだ」と噂します。
それを聞いた彦斎の母親はそういう噂が広まるのを嫌い、もうあの家には行くなと彼に言います。
そう言われていざ行かなくなってみると、それまで何とも思っていなかった子が急に恋しくなってくるのです。



-青春編2-

彦斎の母はそういう浮名が立つのを恐れて、いそいで知り合いの家の娘を彼に嫁しづけようとします。
そして、その娘の事を彼に色々話すのですが、二人を会わせる前に母は死んでしまいます。
時が経ち、参勤交代の供で江戸に来ている彦斎。ふと故郷の亡き母を懐かしんでいると、
その母が昔話してくれた顔も知らぬ娘のことも懐かしく、そしてだんだんと恋しくなっていきます。



-竹刀と真剣-

彦斎は幼い頃からお掃除坊主としてお城勤めしていたので、他の子のように文武(とくに剣道)に
磨きをかける時間があまりありませんでした。だから剣道の試合ではいつも打たれてばかりいました。
彦斎を散々に負かした相手が誇らしげにしていると、彼はこう相手に言います。「竹刀での勝負は確かに
僕の負けである。しかし真剣をもって生死を賭けて闘うことになれば、キミが100人束になってかかってきても
決して負けない。」と。…そしてそれは、ただの強がりではななくなってしまいました。



-鑑定士彦斎-

彦斎はある日、知人の家を訪れます。その人は彦斎の前に一刀を取り出して、「これは我が家に
代々伝わる刀だ。これが名刀であるか、また誰の作ったものであるかちょっと鑑定してみてくれないか」
といいました。彦斎はそれを受け取り部屋を出てしばらく鑑賞していました。が、突然その人の襟をつかみ、
右手で彼の喉元にその刀を突きつけたのです。彼は驚いて「何をする、キミは気でも狂ったか」と叫びます。
すると彦斎は「いいえ、気など狂っておりませぬ。僕はこれが名刀かどうかを試しただけです。刀というのは
狼や龍を殺すためのものではなく、人骨さえ断つことが出来ればそれで十分。後は全体のバランスが良いか
悪いかだけでございましょう。今僕が貴殿に試したところ、長くもなし短くもなしでバランスもいい。誰が作った
ものであるかなど知る必要もありません。まことに天下の名刀です。」と言ったそうです。



-おしゃれ?-

彦斎は同志三人と江戸市中を散歩していて、自分の反物を買うため呉服店に立ち寄りました。
そして同行者にに、どれがよいか見てくれと言いました。皆は「キミが着るんだから、キミが気に入った
のを買えばいいじゃないか。」と言います。すると彦斎は「いや違う、服と言うのは他人の目に良く映るもの
でないといけない。自分だけが見るものなら何でもいいが。」といったそうです。
彦斎らしいと言うか、らしくないと言うか…(^^ゞ



-神がかり(宇気比)-

幕府は小笠原、板倉両老中を京都に派遣し、朝廷に公武合体を迫ろうとしていました。二人の老中は
すでに大阪まできています。これを知った彦斎は、公卿のような衣装に身を包み、飾り太刀を持ち
従者を引き連れて、下賀茂神社に参詣しました。そして祈りをささげた後、「この幕吏たちを除こうをと
思いますが、いつどのようにやるべきか御神慮うかがいます。神慮が示されるものは水に浮かんで
沈みませぬよう」と三枚の紙を御手洗川に流しました。

 1.いますぐ彼らの泊まっている宿へ行って斬るか
 2.京都に入るのを待ってから斬るか
 3.朝廷の親兵でもって襲うか

一つは流れ、一つは沈み、一つは水面をくるくる回って浮かぶのでした。
浮かんだものを拾い上げてみると、「京に入るのを待ってから斬る」と書いてありました。彦斎は急いで
帰り支度をして二人の入京を待つのですが、老中たちは朝廷から入京を禁止されたため引き返すことになったのです。
・・・斬らずに済みました。




-人斬り彦斎-

ある日彦斎は友人数人と集まって酒を飲んでいました。そして話題はとある幕吏の横暴についての話になります。
彦斎はそれまでずっと黙って聞いていたのですが、いきなり立ち上がり出かけていきました。
数時間たっても帰ってこないので友人たちが心配していると、ようやく戸が開き彼は帰ってきました。
「キミたちがいう専横横暴な幕吏というのはこの男か?」
彼の右手にはその幕吏らしき男の首がぶら下がってありました…。



-仇討ち-

第二次征長戦で熊本に戻り投獄された彦斎。出獄した時にはすでに大政奉還が起こり文明開化の世
でした。薩長中心の元同志達が政権を握り、攘夷を破棄し開国へと政策転換させてしまっていました。
彦斎(このころ高田源兵衛と改名)は怒って薩長に対抗すべく全国を旅し、反政府志士達(旧幕府軍
の兵士たちなど)を説いてまわります。旅の途中佐久間象山出身藩、信州松代藩に立ち寄り、そこで
大いに歓迎を受けるのですが、酒宴の席で松代藩士の一人が「我が松代藩には佐久間象山という立派な
人物がおりましたが、惜しくも貴藩の河上彦斎に殺されてしまいました。今、象山先生の子息が敵討ち
の旅に出ております。」と言ったのです。
目の前にいる高田源兵衛がその河上彦斎だと言う事を知らずに…。
彦斎はそれに対して「象山先生は我が藩の河上彦斎に殺されたのですか。私は河上をよく知っております。
是非ともその仇討ち、成し遂げさせてあげたいですな。」と平然と語ったそうです。
彦斎の同行者は冷や汗を流してその様子を見守っていました。




-有終館にて(人望高き隊長)-

後進を育てるために、赴任地鶴崎に有終館という塾を建てた彦斎。
彼はそこで弟子の隊士たちと共に寝泊りし、生活していました。
ある夏の夜、蚊の大軍が有終館を襲いました(天下の有終館と言えども蚊は怯みません)
蚊帳がちょうど一人分の大きさのものが一つあり、隊長である彦斎が使えば良かったのですが
彼はそれをしまい、みんなと共に蚊に食われて寝たそうです。




-彦斎流攘夷論-

河上彦斎は単純に夷敵嫌いの攘夷論者と描かれることが多いですが、実際は違っていました。
彦斎は弟子の中村六蔵に「日本は将来、ロシアとの交流が必須になるだろう」とロシア語を学ぶよう
薦めています。彼の論は鎖国攘夷ではなく、ロシアや、朝鮮、中国など、アジア或いは近隣諸国との
貿易によって富国強兵し欧米と改めて交渉するというものだったのです。




-密偵を斬る!-

山口藩庁取り囲み事件を起こした奇兵隊の生き残り兵や、その首謀者と睨まれていた大楽源太郎ら
が脱藩し鶴崎有終館に逃げ込んで来ると、彦斎は彼らを毛利空桑の塾や近くの寺院に匿ってや
ります。政府は大楽が豊後へ逃げ込んだことを突き止め、彦斎らが匿っているのではないかと疑い
ます。ちょうどその頃、有終間に土佐の沢田衛守という人物がしきりに毛利空桑の塾へ出入りし、
政府批判をしては有終館の目的や内情を聞き出していました。はじめは空桑も警戒していましたが、
時期に同志として見るようになり、有終館が反政府教育をしている事を彼に話してしまったのです。
次の日の朝、空桑が目覚めてみると沢田の姿がどこにもありませんでした。彼はいそいで彦斎の元
へ行き事情を説明します。彦斎は沢田が政府の密偵であると確信し、中村六蔵を使って沢田を斬りに
行かせたのです。






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