大楽源太郎-人物伝



【誕生】

大楽源太郎(だいらくげんたろう)名は弘毅、奥年。通称源太郎。
号は西山、朝風、歳寒堂。上隅狂者。
変名は多々良奥年、団直太郎、中瀬一郎など。

 大楽源太郎は天保五年、萩藩家老児玉若狭臣山県信七郎の長男として誕生しました。兄弟は弟が一人(後に兄源太郎と久留米で暗殺される山県源吾)と妹が二人。源太郎は長男でしたが、12歳のとき同じ児玉家家臣大楽助兵衛の養子となり大楽家を継ぎます。

【少年時代】
 大楽源太郎は少年のころから学問好きで、多くの勤皇学者に師事します。12歳のときに萩の漢学者吉松淳蔵の塾へ通い、漢学を学びます。吉松淳蔵の門下生は久坂玄瑞、高杉晋作など。このころから久坂玄瑞とは親交があり、後年彼の一番の親友となるのです。その後山県家と共に防府の大道村へ引越し、大田稲香の学文堂に入門。
学文堂の門人は赤川晩翠、大洲鉄然、青木周蔵など。彼は特に漢文の素養が深く、13歳にして以下のような詩を作っています。

細々として風は林【木越(エツ)】より生じ
夜来偏に覚う髪根清きを
碧瑠璃上一痕の月
流れて前灘にいたり砕けて声あり


 学文堂で数年学んだ後、源太郎は勤皇僧月性の時習館で学びます。月性の門人は源太郎の他に、赤根武人、世良修蔵、大洲鉄然など。月性は早くから倒幕論を唱え藩主に建白していたので門人たちもその影響で急進的な活動家が多いのです。
安政二年、22歳のとき広瀬淡窓の咸宜園に入門。大田稲香の紹介であった。この塾には大村益次郎も学んでいます。

【上京〜安政大獄】
 大楽源太郎は安政四年、師月性と共に上京。月性の取り成しで頼三樹三郎の家に寄宿し、そこから西郷吉之助、梅田雲浜ら多くの志士達と交流し、また翌年には頼の紹介状を携えて江戸へ桜任蔵を尋ね、江戸の勤皇学者たちから講義を受けます。
二ヶ月の滞在を終え京へ戻ったころ、師月性の急死を聞き帰郷。その後再び京へ上り梅田雲浜の門下に入り、同じ門人である赤根武人らと行を共にするようになるのです。
しかし安政六年、大老井伊直弼による安政の大獄が起こり、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲浜など多くの勤皇志士、学者達が処刑。赤根と計って師の救出を試みた源太郎もその罪で幕府に追捕される身になるものの、巧みに長州へ逃げ帰り幽閉という処分で済みます。行動派の源太郎は謹慎が解けたか解けないかの内に水戸へ赴き、後の桜田門外の変の中心人物となる斎藤監物を訪れ、大老暗殺の計画を練ります。が、事は発覚し連れ戻され、またしても謹慎処分を受ける事となるのです。
梅田雲浜、頼三樹三郎は死する直前、源太郎に漢詩を書き贈っています。
(梅田雲浜)
送大楽
終宵独不眼 挙手指青天 一去千山外 此心月満船
与源太郎飲別
竹窓相対酌離杯 勁節見君傷老懐
世上少年如子少 秋風秋雨帯愁来


(頼三樹三郎)
孔曰成仁 孟曰取義 惟其義尽 所以仁至 読聖賢書 所学何事

【天誅事件への関与】
 全国の尊王の志士たちはこの安政大獄に憤慨し、ついに翌万延元年、水戸浪士たちによって井伊大老暗殺が起こります(桜田門外の変)このころから、一旦は引いていた尊皇攘夷の波が再び押し寄せ、京では佐幕開国派要人への天誅が流行し始めるのです。文久になると京での天誅事件は次第に数を増してきます。 大楽源太郎は、学問に秀で詩才にも恵まれた文人でしたが、同時に数々の暗殺事件にも関わった暗殺者でもありました。彼が関わったものに、足利氏木像梟首事件や冷泉為恭暗殺などが挙げられます。足利氏木像梟首事件とは、洛西等寺院にある足利氏13代(足利氏は代々朝敵とされていました)のうち、3人の木像の首を切り三条河原にさらすというものでした。

【将軍抑留計画】
 文久三年三月、勤皇志士達は幕府に将軍上洛を促します。天皇の下に置いて攘夷を誓わせこれを拒めばいよいよもって倒幕の口実にしようとしていたのです。勤皇志士達が多く活動する京の地は幕府にとって居心地のいい場所ではありませんでした。不利な勅を下される前に早々と江戸へ戻ろうとする将軍。 そのころ京で活動していた高杉晋作は同志を集めて将軍江戸帰りを引き止める策を練ります。その会合に出席したのは松下村塾グールプ、肥後勤皇党など大楽源太郎も含めて21人。高杉の提案は「将軍は間もなく帰府願いを出すはずだが、それが願い届かなくてもきっと江戸へ帰るだろう。そうなれば勅許無視の罪として要撃できる。」というものでした。しかし集まった同志の中に横井小楠暗殺の嫌疑をかけられている肥後藩堤松左衛門という者がいました。彼は常に藩から監視されている状態にあったので、このたびの事には参加させまいと言う声が挙がりました。堤はこれに怒り「それなら自分が一人で将軍に滞京を求めに行き、聞き入れられない場合はその場で自決する」と言い出したのです。皆はこれに驚き何とか止めようとしますが、堤はどうしても聞き入れません。そこでその場にいた大楽源太郎は「堤一人に行かせるわけにはいかない」と言い、彼に同行します。しかし、将軍は勅を奉じて滞京することとなり二人は目的を失います。堤は肥後人特有のモラルから皆の所に戻ろうとしないで「事が成せず」を悔やみ、切腹。一人残された源太郎には堤の切腹は心外な事だったのか、恥じながらもその場から遁走してしまいました。同志達(主に長州人)は大楽に切腹を迫りますが、仲裁するものもあって故郷へと帰されるのです。


【冷泉為恭暗殺】
文久三年、故郷に帰った大楽源太郎は藩から京都の大学建設を任命され、笠間藩士加藤有隣と共に再び上京します。彼らはこの倒幕学校建設に大いに力を振るいました。しかし同年八月、京における長州藩及び長州派公卿の追放(八月十八日の政変)により建設は中止。源太郎は長州へは戻らず江戸や水戸へ行き藤田小四郎ら尊皇攘夷志士たちと交わります。
翌元治元年、源太郎は京にあって一人の人物を刃にかけます。宮廷絵師冷泉為恭です。為恭は所司代の酒井若狭と親交が深く、且つ佐幕派の人間とも付き合っていたので日頃から勤皇の志士たちに目をつけられていました。為恭も自分が狙われているのに気付き、巧みに逃げ回ります。そこで源太郎は為恭の妻綾衣の行動を仲間に見張らせ、綾衣が度々堺の商家大徳の家に出入りしているという情報を掴みます。そして四、五人を連れ立って大徳の店へ行き為恭の居場所を吐かせるのです為恭は大和の永久寺に潜伏していました。逃げられないように、まずは大徳を使って「堺に来て欲しい」と、おびき寄せます。大徳が為恭を駕籠に乗せ後ろをついて歩き、源太郎らに合図。源太郎は駕籠の中へ声を掛け、驚いて出てきた為恭の首を切り落すのです。その後、首を大阪に運び本願寺の石燈籠の中に晒し、以下のような斬奸状を貼り付けました。

 岡田式部

此者王城の下に生育しながら、尊攘の大典を忘却し、前に長野義言うに党し、
後に酒井若狭に媚び、私慾をとげんが為に正義を排し、正士を害しその罪枚挙にいとまあらず、
就廃流献毒の逆謀に預かり候は、天地に容れざる大罪なり、
是を以って先年同志の者斬戮せしめんと欲し候処不幸にして打洩らし、
その後探索致し候得ども行衛不詳、然る処去秋剃髪名を心蓮と改め、
紀州粉河より泉州堺に潜居し、謂ゆる天網恢々疎不漏、
昨端午昼時大和国丹波市路上にて生捕、即刻天誅を加え当地まで持帰り、
梟首するもの也。
嗚呼尊王の大義を失い、攘夷の明詔に背き候者、遂に白刃にかかり候自然なり、
豈唯此者のみならんや。


【禁門の変】
元治元年六月、長州へと落ちていった志士達は、会津・薩摩による厳重警備態勢が敷かれている京へ再び潜り込み諸藩の勤皇志士達と連絡を取り合って失地回復を計ろうとしました。肥後勤皇党総帥宮部鼎蔵はこの不利な態勢を早急に打破するためには強硬手段しかないと考えます。風の強い日を選び御所に火をつけ、慌てて飛び出してきた京都守護職松平容保を討ち、公武合体派の公家たちを追放するというものです。しかしこの計画を京都警備に当たっていた会津藩預かりである新撰組に知られ、宮部らは池田屋で会談中を襲撃。この事件で、宮部をはじめ多くの勤皇志士が殺害されます。
同年七月、京を追放された長州藩は先月の池田屋事件でさらに怒りが爆発し、武力行使に出ます。武力をもって長州派公卿、藩主の寃を訴える、禁門の変です。三家老を先頭に御所を守る会津、薩摩、桑名等の兵との激戦が始まります。
大楽源太郎は真木和泉、久坂玄瑞率いる浪士組の書記係りとして参戦します。が、斥候を任され馬に乗って敵陣方面へ行く途中、同志の乗っていた馬が急に暴れだし、源太郎の馬に体当たりしたため振り落とされます。二人は慌てて馬を追いかけますが、森に入ってしまい三日間行方不明になり、謹慎処分に。山崎陣中で源太郎は佐久間象山暗殺を計画しますが、久坂玄瑞に反対され断念。象山は河上彦斎らの手によって斬られるのです。
長州軍は一時御所に迫る勢いでしてが、天竜寺隊の指揮官来島又兵衛が薩摩軍の銃弾に当たって戦死したのを堺に、総崩れとなります。唯一の親友であった久坂玄瑞も天王山で自刃。源太郎は悲憤やるかたなく長州へ落ちて行きます。

【忠憤隊組織〜四境戦争】
 この大戦によって多数の改革派が死に、政権が俗論派に傾いてしまった長州。征伐軍を整える幕府に俗論党は、福原越後、国司信濃、益田右衛門介、三家老の首を献上、四参謀を処断し謝罪します。高杉晋作、井上聞多ら残りの改革派は俗論党から命を狙われるようになり、筑前平尾山荘の野村望東尼のところにしばらく潜伏していましたが、保守派色が濃くなっていくのに見かねて下関の功山寺で改革兵を挙げます。大楽源太郎は同志を集め忠憤隊と名付けこれに呼応。高杉率いる改革軍が藩の俗論党を打ち破り、藩政は再び改革派によって占められたのです。この内戦で多くの隊が出来編成され、忠憤隊も三田尻の報国隊と合併。その後米沢藩、村松藩遊説に出かけますが、効果はなく帰国。
慶応二年、源太郎は防府大道上り熊に「西山書屋」という私塾を開設します。一階が教室、二階が自室となっており、そこに妻子を住まわせ養っていました。西山書屋での教科は論語、弘道館記述義(水戸学)、日本外史、靖献遺言新論(浅見絅斎著)など。塾は建物の規模も設備も整っていて、門人も多くその数は百数十人を超える時期がありました。門人には、神代直人、大田瑞太郎、団伸二郎ら大村益次郎暗殺に関わる人物や、後に日露戦争陸軍大佐を経て総理大臣となった寺内正毅などがいました。この年、薩長同盟が結ばれ再び尊攘派が台頭し始めた長州に、幕府は征伐軍を派遣(四境戦争)。西山書屋の塾生もこの戦いに参加します。高杉晋作や大村益次郎の戦略で圧倒的な兵力を持つ幕軍を打ち破り、ついに倒幕を成すのです。

【大村益次郎暗殺】
四境戦争に勝利し長州を倒幕へと導いた一人、大村益次郎。大村は明治新政府の兵部大輔に任命され西洋式の軍事体制をしき、帯刀禁止令、断髪令などを発布。これが多くの武士たちの反感を買い、明治二年九月四日、ついに大村は京都で刺客に襲われ重傷を負い、その傷が元となって二ヵ月後に死亡します。この刺客の中に西山書屋の塾生が多数含まれていたので、大楽源太郎は暗殺を教唆した首謀者であろうという疑いをかけられます。大村を襲った一人である神代直人は兇行後豊後姫島に潜伏していましたが、師である源太郎が政府から嫌疑をかけられている事を知ると山口へ戻り、捕吏が来る前に自害します。源太郎は主君児玉若狭から幽閉を命ぜられ、塾生たちとも離れ離れになり一人寂しい日々を過ごすのです。

【久留米で斬殺】
明治二年、藩籍奉還により新たに藩知事となった毛利元徳は、藩の兵制改革を行います。第1〜第4の正兵隊のみを残し、残りの諸隊を解散するよう命じたのです。奇兵隊などの諸隊はこの解散命令を不服とし、山口を脱走して三田尻へ集結。藩庁に上書します。が、藩庁は退散を命じ受け入れようとはしません。ついに、脱走兵たちは藩庁を取り囲みます。その数千人余り。この中にまたしても大楽源太郎の門人が含まれていました。源太郎は彼らの説得を試みるものの、失敗。自身も日頃反政府的な発言をし、諸隊解散には大いに反対していたので、この藩庁取り囲み事件の首謀者と睨まれるのです。三月五日、ついに藩庁から出頭命令が出ます。しかし源太郎はこれを無視して密かに山口を立ち、九州へ走ります。豊後姫島へ三ヶ月潜伏し、その後熊本藩飛び地である鶴崎にかつての同志だった高田源兵衛(河上彦斎)を訪ね、回天軍を挙げようと計りますが高田は時期尚早とこれを拒否(結局高田は源太郎隠匿罪で逮捕されます)。
源太郎は仕方なく鶴崎を離れ、久留米へ走り応変隊を動かそうとします。応変隊は維新後も尊王攘夷思想が強く、源太郎を喜んで受け入れます。しかしその尊攘思想の強さが災いして、政府から源太郎隠匿の疑いも大いに受ける事になるのでした。政府の度重なる追求に耐えられず、ついに応変隊の同志たちは源太郎を斬ることを決意します。藩の存続には代えられなかったのです。明治四年三月十六日、雨の激しい夜。大楽源太郎は川島澄之助、吉田足穂、大田茂、松村雄之進、柳瀬三郎の五人に「回天軍を起こす準備が出来たので来て欲しい」と誘い出され、弟の山県源吾と共に河原近くで斬殺されます。彼らは源太郎らの首を持ち帰り、酒を供えて泣いたそうです。
「藩の為にはこうするしかなかったのだ。もうこの国難は我々ではどうすることも出来ない。この罪、必ず報いるからどうか安らかに眠ってくれ。」と。川島、柳瀬、松村の墓はその遺言で源太郎の墓の傍らに建っています。

参考文献:内田 伸著「大楽源太郎」


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