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神風連烈士和歌~

長束勝馬氏、辞世

名は盛光。
石高六百石の家柄で、通丁連に属し、小林恒太郎らの説得で一挙に加わった。挙に敗れると、一度自宅に戻り南下し上益城郡の農家に潜伏後、秋月へ。秋月での敗戦を知ると、同じく同地へ落ち延びていた大野吉太ら同志と合流し、再び熊本へ戻る。
合志から今度は単身熊本城下へ再挙を図るべく情勢を伺いに入るが、それを不可能と知るや、知人を呼んで別れを交わし辞世を遺した。時は10月29日。一挙より5日後であった。
享年26歳。

かかる時さこそ、命の言の葉の思い知らるる我が身なりけり
                  (長束勝馬氏辞世)

こうした和歌を読んで、自分や周囲のことを思うとき、後になって悔いたり、後になって事に気づかされるといった事を思い出す。
日頃、逐一言動や行動をチェックするという事はしないし、気に留める事も稀なものである。
彼のように、何かしら衝撃的な事が起こった際、ふとした拍子に「あ・・・そういえば」と思い立つ事が殆どである。
たとえば、親の小言。
煩わしく思っていた頃から、今年を重ねると、「あの時言っていた事はこの事だったのかと、自分の為に教えてくれていたことなのだと改めてその重さに気づかされるという場面が訪れる。
それはちょっとした拍子に思い出す場合や、悶々と落ち込んだとき、何か困ったときに思い出すものである。
「命の言の葉」というのは、そうした、後の記憶に残る何気ないもので、日頃気に留めない些細なところに隠れているものなのだと、思い知るものだと思われる。
日々、過ごす中で、こうした何気ない言の葉の中に隠された“心”に目を向けてみる事が自分個人にとっても、情報社会に生きている日本人にとっても必要な事と思う。


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忘年会シーズンにつき

先週から遅くまで飲んでおりました。
ストレス社会に対する発散方法の一つですかね。
ワーワー騒いで、飲んで食べて、年末のお楽しみです。
今週がラストになりますが、もう一暴れして参ります・э・


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加屋翁~小説設定①

天保7年丙申1月13日(a)に熊本高田原仲間小路(b)に生れる。
その祖は、菊池氏一族であり、正平14年8月筑後大保原合戦(c)で戦死した加屋兵部大輔である。
父である熊助は中小姓(d)であったが、ある事件に連座して自刃し、後は列伝にあるとおり、家名断絶から再興までの道のりがある。
当時16歳での家名断絶で、幼少の為・・・と理由付けしているが、実は当時既に元服しており、烏帽子親は彼が指示していた、木村楯臣で一字を授かり楯列となっていた。何れにせよ、家名を背負うだけの力量が未だ無しと見ての事と取れる。

(a)天保7年丙申1月13日
現行の暦では2月29日(28日)になる。

(b)熊本高田原仲間小路
現在の熊本市上通・下通一体(白川と坪井川の中間)は中下級武家屋敷が並ぶ町であった。高田原(こうだばる)にある仲間町は、下通町(白川沿い)にあり、加屋先生はこの近郊にあったと思われる武家屋敷で誕生したと思われる。

(c)正平14年8月筑後大保原合戦
南北朝時代の合戦。吉野朝廷と京都朝廷をそれぞれに建て、各地で繰り広げられた合戦の中でも、特に規模の大きかった戦い。
南朝側である後醍醐天皇に従った菊池武光率いる軍勢四万と北朝六万による計十万の大規模な合戦となり、戦いで3万近い将士が斃れたという。関が原などに並ぶ日本三代合戦の一つである。

(d)中小姓
侍と足軽の中間に位置する階級。
加屋家は最下級士族という事になる。
ちなみに加屋霽堅は二人扶持(勿論再興後)となり、一家4人程度が普通に生活するだけの財力だったことが伺える。


少しずつ、紐解いていくと彼らの苦楽の生活が垣間見え、歴史の面白さを感じられるものである。
こうした考察を今後も続けたいと思う。


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師走

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昼と夜の気温差には参りました。
師走に入り、ぼちぼち年賀状作成せねば拙いと思い、取り掛かったものの。寒さで一向に進みません。
さて、皆様は既に完成されたでしょうか??
懐かしいのプリントごっこであれば、到底間に合わないのですが、今の時代パソコンもプリンターも機能が強化され、どんどん完成速度は速くなっております。
未だに新しい機械に慣れないので、仕上がりは一体いつになるやら・・・20日までには100枚近く作らねばなりませんので、頑張りますがな;Э;寒すぎる・・・


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