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墓参りへ

先日は山口県へ。
長府覚苑寺(かくおんじ)に墓参りです。
長府毛利家の菩提であり、お墓の前方には六代毛利藩主の墓所とその重臣の墓が並んでおり、大変厳かな場所であります。
この時期は紅葉が見事で、写真撮影に訪れた観光客も多かったです。和同開珎という最古の貨幣の釜があったといわれる事もあり、また、幕末期には奇兵隊本陣でもあった事から、歴女の方もチラホラ見られます。

いつ行っても、落ち着く場所です。
城下町の面影がしっかり残った町並みは、本当に貴重な財産ですね。今後もこうした風景がしっかり守って行きたいものです。

それにしても、400Kの距離はなかなか疲れました。
体力落ちた事を痛感・э・

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義挙とその後

+石原運四郎の葬儀+

石原・阿部夫妻が自刃して後、県より中山政説が警吏を従え検死に訪れた。石原運四郎は既に事切れていたのだが、その姿は生前さながらに端座のままうつ伏せた様子であった。
木村某に命じ「死に真似ではあるまいか、起こして見て来い」と言い、木村が彼を抱き起こし、別の者が短刀を抜ると、喉元僅かに刺し貫き下腹一文字に薄く引割れていた。
これを見届けた検使中山も、立派な最期なりと感嘆したという。

素より罪人という事で、公然の葬儀は許されない。
親族故旧によってひそかに湯灌など執り行われ、埋葬された。
(“石原醜男氏「先君行状」”神風連実記より抜粋)

烈士らは、義挙の後散り散りとなり、自刃する者も少なくなかったが、その中で再挙を志した人々も幾人かあったようだ。
結局再挙はならないのだが、彼らの死後、遺された親族は相当の苦労があったと言われている。
石原醜男氏は幼少時「神風連の子」と蔑視される辛い日々が記されており、こうして国を乱した賊として公然に葬儀はできず、親族のみによる、葬儀するなど、歴史の敗者とされた人々の苦労がうかがい知れる。
その中で、己を律し、耐えながらに生き抜いた子女達の生き方もまた、今日我々がしっかり学び受け継ぐべき心かもしれない。
烈士らとそれを支え続けた人々の輪が、今の時代こそ必要だと思われる。


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休養中・・・

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参りました。
久坂玄瑞~神風連を開始して、何年経ちますか。
懐かしい事ですが、4~6年前にほっこ氏とサイトを統合させて偲奉会も立ち上げて、今に至る・・・多分そうだったと思い返しております。
年取ったものだと、最近妙に感じるのが・・・腰痛。
元々デスクワーク・・・昔の武士と同様せっせと会社へ忠義を誓って御勤めという日々繰り返しの仕事でありますが、昔に比べて「あー疲れたなぁー」とグッと身体を伸ばす事が多い。
親父の様に伸びて軽く肩を回します。
年取ったものだと痛感します。
最近辛いに限界があって、遂に整体へ世話になりました。
ああ、デスクワークの次はこうしてネット上で座って書き込み。
・・・さて、次の予約入れとかんとな・・・ ・з・

黄沙が連日迷惑な事ですが、体調には気をつけて頑張りましょう。
仕様もないですが、この辺で。

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河上彦斎を悼む和歌

君の為世の為、思いいつきさちのいつの雄たけびいつかなごめむ
  ※“いつきさち”は彦斎の事
                     加屋霽堅
君まさば君まさばとて偲ぶかな変る浮世の見るにつけても
  
                     富永守国

勤皇党からの古参の同志であり、また攘夷の旗を掲げ戦う上でも便りとなる彦斎。
その言わば桜園の元学んだ太田黒伴雄と共に、支柱ともいえる存在を一人失う事は、相当な痛手であろう。
ましてや、変り行く体制。急激にかつての攘夷論を取り捨てて、欧米化による軍事力政治経済の強化を進める政府に対し、反対勢力の一角を失ったのみならず、深く交わり、志を共に歩んできた仲間を逆臣の如く殺されるなど、耐えれるものではなかっただろう。
彼らの悼みや悲憤が和歌からも伺える。
幾人もが彼を悼み和歌を詠んだが、その一部を紹介。


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